創価学会員として生きていく

波田地克利や金原明彦を中心とするグループ、創価学会元職員3名ら福岡大祐のグループ、宮川日護(雄法)らの本性をあぶり出し、反面教師としながら、創価学会員として生きていくべき道を追求します。

波田地克利が弄する【師匠利用】【ごまかし】【法盗人の詭弁】

YouTubeチャンネルに投稿された波田地克利の独演会は、学会員として“こうなったらオシマイ”という典型的な標本といえます。

いちいち取り上げるのもバカバカしいので、主立った部分に触れつつ、その舞台裏をのぞきます。

ここで特に指摘しておきたいのは、波田地による「師匠利用」「ごまかし」「法盗人の詭弁」の3点です。

激励のひけらかし

まず「師匠利用」についてですが、特に1本目の動画は、波田地自身が冒頭で語っている通り、ひたすら自画自賛の「自慢話」に始まり「自慢話」に終わります。

その自慢話の最たるものが「金褒賞」です。

かつて波田地は日顕の説法を破折する論文を書いた」ことがきっかけで金褒賞をいただいたそうですが、これが「どこの副会長よりも金褒賞もらうの早かった」と得々とひけらかします。

しかも、一緒に授与された別の人物を「ボクの原稿の最初の何ページか打ったっていう●●」などとクサしながら己の手柄にしているのですから、まさしく「自慢話」以外の何ものでもありません。

こういうことは、あえてひけらかさない慎ましさが信心というもの。自分への激励を通して「師の偉大さ」を宣揚するのではなく、ただただ“ボクってスゴイでしょ”と粉飾するために師を利用しているのですから、悪辣というほかありません。

師匠利用の手口

さらに悪質な「師匠利用」の事例が、独演会の中にありました。

それは波田地が、池田名誉会長の大阪大会における挨拶を持ち出し、実際の音声と本部幹部会で上映された映像とを比べると「御本尊様」の前についていた「大」がなくなっている、と騒いでいた点です。

しかし、例えば小説『人間革命』第11巻の第2版では、「最後は、信心しきったものが、御本尊様を受持しきったものが、また、正しい仏法が、必ず勝つという信念でやろうではありませんか!」等と綴られています。

聖教新聞で報じられていましたが、この第2版は、全集収録にあたって池田名誉会長が、「50年後の、若い読者が読んでもよく分かるように」と表現や表記等も一部改めるなどの推敲をされたもので、第11巻の第2版は2013年7月に発刊された全集第149巻に収められています。

波田地や波田地グループの番頭格・金原(きんばら)明彦らは、かつての池田名誉会長の言葉を利用して、“「大御本尊」の「大」は取るべきではなかった。今の学会執行部がやっていることは名誉会長の考えに反する”として「改ざん」などと勝手に騒いでいますが、2013年7月の時点で名誉会長ご自身が推敲されて「大」が削除され、全集に収録されているのです。

波田地らの言っていることは、池田名誉会長による推敲にまで難癖をつけることにつながっていくわけです。

起訴猶予」隠し

次に、波田地ならではの「ごまかし」の手口が浮き彫りとなったのが、波田地が創価新報の嘘を暴く」と題して創価新報の記事に噛みついた部分です。

結局、一つとして「嘘を暴く」ことができず看板倒れに終わっているのですが、波田地は、創価新報に掲載された総県長会議での志賀男子部長(当時)の話を取り上げます。

そして、「ついには、波田地の話が出元となって、一部マスコミに学会中傷の記事が掲載されるに至り、会員除名となったのです」との一文に対して波田地は、「嘘を暴く」ことはせず、問題となった「学会中傷の記事」に掲載された、谷川佳樹主任副会長に対する誹謗・中傷に話を向けました。

この一件をめぐって波田地は、同主任副会長から名誉毀損罪で刑事告訴されましたが、波田地は、それが「不起訴」になったと主張し、自らの正当性を言い募っています。

しかし、ここで波田地は重大な「ごまかし」を行っています。

というのも、不起訴には種類があります。

大別すると、容疑者が人違いだったなど、犯罪の疑いが晴れた場合の「嫌疑なし」。

犯罪の疑いは完全には晴れないものの、証拠が不十分で有罪を立証できるまでには至らなかった際の「嫌疑不十分」。

そして、証拠が十分にあり、有罪の証明が可能ではあっても、容疑者の性格や境遇、年齢、反省の有無、犯罪の軽重、被害者との示談の有無などによって不起訴となる「起訴猶予」。

つまり、一口に「不起訴」といっても、「起訴猶予」は“クロ”ということであり、波田地の不起訴は、まさしくこの「起訴猶予」でした。

ところが波田地は独演会で、「起訴猶予」とはひと言も言わず、「谷川の主張はクロだから門前払い」などと言いふらしています。

しかし、真相はまったくのアベコベで、「波田地がクロ」だったのです。

波田地がグループの集会等で「起訴猶予」の事実に具体的に触れたことも寡聞にして知りませんので、あえて波田地は「起訴猶予」の事実を隠していると推察されます。

起訴猶予」とはひと言も言わずに、「不起訴」という言い方で丸め込む──要するに“嘘はついていない”というわけです。

このようなごまかしの手法は、波田地が随所で用いる手口です。

今なお日蓮正宗の僧侶と親密な波田地・金原

最後に「法盗人の詭弁」です。

独演会でも触れていましたが、波田地は「五重の相対」をもじった「八重の相対」なる邪義を、折あるごとに触れ回っています。

「五重の相対」は一貫して成仏の可能性の上から教えを相対化し、「如我等無異」に至らしめているわけですが、波田地が新たに説く3つの相対は、それぞれがそれぞれ、まったく判別の基軸が異なる二項対立です。

その一つ一つを取り上げれば“今さら何を?”という内容ですが、波田地が悪辣なのは、都合の良さそうな御書や指導などをかき集めて、それらを、もっともらしく五重の相対の延長線上に位置づけ、自分たちが言っていることの正当性に結びつけることで、人々の関心を引き、錯乱させ、絡め取ろうとしている点です。

まず、6番目の相対として波田地は、日蓮正宗宗門と創価学会を相対化する「宗創相対」を唱えています。

しかし、「創価学会に所属すること」が成仏の条件だとすると、会員以外の成仏は望むべくもなくなってしまい、五重の相対を逆行してしまいます。

ほかでもない、学会員ではなくなった波田地自身が、この段階で不成仏が確定してしまいます。

しかも波田地は、“次の法主になれば、かなり違う”“これを乗っ取ることはできる”などと嘯き、資料の提供を受けるなど今なお宗門の僧侶らと親密な関係を維持しています。

金原も、メンバーたちを前に「皆さんさえよければ、いつでも宗門、復帰できますよ。ツテはありますから」と公言していました。

宗門も学会も「相対」どころか混然一体となっているのですから、波田地や金原自身が6番目の相対をクリアできません。

広宣流布の永遠の師匠」

また、7番目の相対として波田地は、池田名誉会長と創価学会を相対化する「池創相対」を唱えていますが、これも実に陳腐な話です。

「私を守るというが、学会を守ることが私を守ることになる。一人の会員を、十人、百人、千人の会員を守ることが、私を守ることです。なぜなら、私の人生は、そのためにあると決めているからです」

「学会を離れ、会員を離れて、私はない。もし、君に少しでも、私を守ろうという心があるなら、学会の組織の最前線を走り抜き、会員を守ることです」(小説『新・人間革命』第8巻)

こうした指導を拝すれば、波田地の言っていることが、いかに転倒しているか一目瞭然です。

しかも、現在、創価学会「勤行要典」の御祈念文には、「創価学会初代会長牧口常三郎先生、第二代会長戸田城聖先生、第三代会長池田大作先生を広宣流布の永遠の師匠と仰ぎ、その死身弘法の御徳に報恩感謝申し上げます」と明確に記されているのですから、波田地の言っていることは、まるで筋違い、見当違いです。

いわんや、そもそも「師匠利用」の波田地に師弟を語る資格などなく、波田地自身が7番目の相対をクリアできません。

酒浸りの師弟不二

8番目の相対として波田地は、師弟の道と師弟不二の道を相対化する「師弟の道・師弟不二の道相対」を唱えますが、これまた「師弟利用」の波田地が何をか言わんやです。

だいたい、「師弟の道」を歩んでいるのか「師弟不二の道」を歩んでいるのか、いったい誰が判定するのでしょうか。

「自称・師弟不二」ほど怪しく危険なものはありません。

小説『人間革命』第10巻には「大聖人の仏法が師弟不二の仏法であるならば、一切法がこれ仏法であるがゆえに、立正安国の現実的な展開のなかにも、師弟不二の道が貫かれていくことは、当然の理といわなければならない」(第2版)と綴られています。

この一節に照らした時、ろくすっぽ勤行もせず、朝から酒浸りで、怨嫉の非難・中傷に明け暮れる波田地のどこに、「師弟不二の道」を見いだせばよいのでしょうか。

波田地自身が8番目の相対をクリアできません。

以上、簡単に見てみましたが、「いかに自分たちを特別視させるか」から逆算して編み出したがゆえの幼稚な暴論であることは、容易にお分かりいただけると思います。

「相手の思考の混乱や感情につけ入って相手をだます、見掛け上は正しそうな、虚偽の推論」(岩波国語辞典)── まさに「詭弁」とはこのことでしょう。

所詮、広宣流布の本流から外れた自分たちを正当化し、その同調者を増やさんがために、仏法を利用し、師匠を利用した、「詐術」にすぎないのです。

波田地グループのマイ・ウェイ

今回投稿された波田地の独演会は2019年7月に行われた集会でのものですが、 その直前の4月、金原は語っていました。

「7月には糾合して、楽しく過ごして、子どもたちも楽しくやっているところも映像にして」

「編集はします。ちゃんと。シナノ企画以上の編集をして、シリーズに負けないBGMをバッと入れて」

この構想は、いったいどうなったのでしょうか。

「子どもたちも楽しくやっているところ」を印象操作の小道具に使おうというところに、金原の意図が透けて見えます。

また、波田地独演会で、映像のバックに写り込んでいる楽器類が気になった方も多いかと思います。

あれは、2日間にわたる集会で、1日目の夜に酒宴の余興として予定されていた、波田地グループのメンバーらによる演奏会のために用意されていたものです。

演奏会では金原が「ボクの歌にバンドがついてこれるかどうか、ちょっと心配なんですけど」と得意げに語りながら、生バンドをバックに「マイ・ウェイ」を大熱唱するなどしました。

これぞ金原が言う「これが波田地グループの実態だ」という「楽しくやっている」コンテンツだと思いますので、ぜひ投稿してもらいたいところです。

といっても、金原は事前に、「(集会では)ちょっと一部、健全じゃないところもあるかもしれないけど。そういう、まあ、だから、こういうのはね、ちょっと今回うまく遠慮したり、気遣いが必要になるけども。表向きね」と囁いていましたから、独自路線の「マイ・ウェイ」を行く酔っぱらいたちの宴会は「健全じゃない」ので「表向きは」「気遣いが必要」かもしれません。

ユーチューバー教祖の邪義

波田地グループの一人は、7月の集会を終えて解散する際、こう決意を披歴していました。

YouTube流布に、しっかり努めてまいりたいと思います」

今ごろ波田地グループの面々は、このYouTube流布」に励んでいることでしょう。

「師匠利用」と「ごまかし」と「法盗人の詭弁」にまみれた“ユーチューバー教祖・波田地克利”の邪義を広めることで、果たして、功徳が出るのか、仏罰が下るのか、はっきりと見極めていきたいと思います。