創価学会員として生きていく

波田地克利や金原明彦を中心とするグループ、創価学会元職員3名ら福岡大祐のグループ、宮川日護(雄法)らの本性をあぶり出し、反面教師としながら、創価学会員として生きていくべき道を追求します。

波田地克利を助長した金原明彦の責任

前稿では、波田地克利が現在、かつての仲間・HKから、“波田地に貸した600万円を返してもらえない”として訴訟を提起されていることや、HKから渡った60万円の使い道について触れました。

この稿では、こうした波田地をめぐる金銭授受の流れにあって、盟友・金原(きんばら)明彦が果たしてきた役割について見てみたいと思います。

身内から出た金原への責任追及

波田地と金原の仲違いがグループメンバーの広く知るところとなった直後、ある日の集会で古参の一人が、金原に直言しました。

「金原さんとかね、林(信男)さんがね、近因の話をして終わろうとしてるけど、ね。遠因があるはずでしょ、遠因が」

「ずいぶん昔からね(中略)黙って(波田地の振る舞いを)容認してきた部分が、今、膿になって出てきたと見てるんですけどね、自分は」

「だから前から、そういうとこは、いくら親しくても、そういう部分てのは厳しく、指摘してこなければいけなかった箇所ではなかったかと、自分は思います」

波田地と金原は長年にわたり一心同体であり、波田地なくして金原なく、金原なくして波田地なし、という間柄であったことは、グループメンバーで知らない者などおりません。

この指摘に対して、さすがの金原も、「“いろんな振る舞いについても特別な人をつくっちゃいけない。お前らが早く、そういうことをきちんと言わなかったら、お前たちの責任がある”って言われましたけど、ある意味、その通りだなと反省もしております」と釈明せざるを得ませんでした。

しかし、金原の責任は、単に「言わなかったから」に留まるようなレベルではありません。

「反省」にこと寄せて、だいぶ事態を矮小化しているように思えます。

波田地と金原の全国行脚

まず確認しておきたいのは、HKが金原グループの「個人的なズーム会談」に参加し、「ハタチ氏に貸した金600万円を返してもらえない」と明かした際、金原が「あれはもらったものと波田地氏からは聞いているが」と発言したと、「会談」の参加者が明かしている点です。

つまり金原は、波田地に600万円が渡った事実について、波田地から直接聞き、知っていたわけです。

この時点で波田地と金原は、事実上、“共犯関係”だったといってよいでしょう。

さらに、金原が波田地と共に月岡温泉へ宿泊し、HKから提供された金で「交流」していた事実は前稿でも紹介しましたが、かつて金原は、このようにも告白しています。

「ご隠居(=波田地)に同行して、札幌、旭川、登別、仙台、宇都宮、小山、足利、日光、草津浅間山周遊、足尾銅山、高崎、霞ヶ浦南房総、千葉、新潟、佐渡穂高、飛騨、高山、名古屋、伊勢、名張、奈良、飛鳥、京都、大阪、神戸、萩、山口、下関、北九州、大分別府、竹田、湯布院、、、 隠居自身はこの数十倍。全国何処へ行っても詳しい詳しい。歩く歩く。『背広の芭蕉』は伊達ではない」

波田地が「背広の芭蕉」なら、さしずめ金原は、芭蕉と「おくのほそ道」を共に歩いた河合曾良といったところでしょうか。これでは芭蕉河合曾良も浮かばれないでしょう。

金原が、背広の芭蕉こと波田地に「同行」して、どのような汁を吸ってきたか、おおかた「月岡温泉」と似たり寄ったりだったのではないかと想像せざるを得ません。

金原が追及されるべき責任は、「容認」したことでも、「言わなかった」ことでもなく、「一緒になってやっていた」ことにあるのです。