創価学会員として生きていく

波田地克利や金原明彦を中心とするグループ、創価学会元職員3名ら福岡大祐のグループ、宮川日護(雄法)らの本性をあぶり出し、反面教師としながら、創価学会員として生きていくべき道を追求します。

分派をめぐり波田地・金原らがこらした謀議

波田地克利と波田地グループの番頭格である金原(きんばら)明彦は、互いの欠点を補い合う、まるで夫婦のような間柄といえるでしょう。

特にグループの方向性をめぐっては、金原が積極的に絵を描き、リードしようと試みてきました。

この数年間における金原の歩みを、振り返ってみたいと思います。

「新しい創価学会をつくるしかない」

グループの舵を切ろうとする金原の動きが、にわかに激しくなったのは2015年秋。

直接的な引き金は、金原自身の学会からの除名でした。

「遅くとも来年(=2016年)の11・18までには白黒つく。それを過ぎたら、新しい創価学会をつくるしかない」

「来年の11・18に、ある程度、見切りをつけて、受け皿をつくってあげないといけない」

除名者としてできることには、自ずから限界があります。

そこで金原は「新しい創価学会」の立ち上げを志向したのでしょう。

このように吹聴して回る金原には、執行部批判一辺倒であってはならないとの問題意識があったようです。

金原は語ります。

「今まで執行部に対する批判はしてきたけど、具体的に我々、どうしようかってことは語られてこなかったので」

「きちんとしたかたちで、そういう人(=処分者)の受け皿になり、あるいは正しい活動を我々自身がしていくというね。

積極的に私たち自身が正しい創価学会のあるべき活動をしていくと。

何をすべきかということを話をしながら、来年に向けて、ある程度、明確な方向性を見いだしていきたいなと」

まさに「分派活動」の旗幟を鮮明にしたわけです。

波田地会長のビジョン」

こうした金原の考えに、波田地も同調します。

「この際ね、創価学会を上回る」

こう語った波田地に向かって、金原が言います。

「じゃあ、明日から、あなた、波田地さん会長やれっていった時に、ビジョンがピッと出せなければいけないと思うんですね。それくらいの気持ちでね」

そして、金原は具体的に、独自の御祈念文の策定までグループメンバーに呼びかけました。

「反創価学会のエキセントリックなグループ」

さらに、新しい会の名称まで考え出すメンバーたち。

創価学会池田正義会」セルビアの片野優)

創価学会池田門流」(その妻の片野典子)

「池田創価学会波田地)

「イケディアンクラブ」波田地)

「池田思想実践同盟」(金原)

種々の案が挙げられましたが、金原は、命名の趣旨を「なんか、この、反創価学会のエキセントリックなグループだっていうイメージを外さなきゃいけない」と説明します。

この一言に金原の自意識が、よく表れています。

創価学会を上回る新しい創価学会」とは、とんだお笑いぐさ。

仮にも、名実共に「新しい創価学会」を標榜するのであれば、いうまでもなく、下種をし、折伏をしなければなりません。

新しい友情を広げ、新しい仏縁を結び、新しい同志を誕生させていく──そうした地道な信仰実践を行い、そして実際に、一人でも実を結んだのでしょうか。

所詮、波田地・金原のやっていることは、単なる「脱会者づくり」。

波田地・金原グループは、どこまでいっても「反創価学会のエキセントリックなグループ」にすぎないのです。

「半分冗談みたいなほうがさ」

そもそも、グループの名称を考えている際の波田地の口ぶりをたどると、その本質が明瞭に浮かび上がってきます。

「やっぱり、あれでしょ。神戸山口組みたいに。やっぱり池田創価学会

「じゃあ、かっこよくイケディアンクラブ。先生が本幹で、イケディアン、イケディアンって。虫の名前か何かだったよな」

「まあ、イケディアンクラブで。半分冗談みたいなほうがさ。解散もしやすいし」

「何となくユルそうだしさ」

この軽薄さ、浅薄さには、怒りを通り越した胸くその悪さを覚えずにはいられません。

自分たちの口で「受け皿」などと表現しているものの看板に、あろうことか師匠の名を騙る。

しかも、ヘラヘラと、まさに冗談半分で。

すなわち波田地・金原らにとって、師匠は「道具」にすぎないのです。

ある時は意趣返しの道具、ある時は自己陶酔の道具、ある時は分派活動の道具──。

次稿では、金原構想の「その後」を検証します。