創価学会員として生きていく

波田地克利や金原明彦を中心とするグループ、創価学会元職員3名ら福岡大祐のグループ、宮川日護(雄法)らの本性をあぶり出し、反面教師としながら、創価学会員として生きていくべき道を追求します。

波田地克利と金原明彦の分裂劇を追う④

波田地克利が金原(きんばら)明彦らを「天魔」呼ばわりしたことにより、およそ1年間にわたって水面下で繰り広げられていた波田地グループと金原グループによる暗闘が、一気に表面化していくこととなります。

その急先鋒となったのが、金原のお膳立てで「自活座談会」の「座長」となったHNです。

このHN、「自活」なる造語の発案者であり(詳しくはこちら)、元々、どちらかといえば波田地よりも金原に近い人物でした。

金原グループからの波田地批判

さて、2022年1月以降、HN座長がTwitterで投稿した、波田地批判とおぼしきものを列挙してみましょう。

「ふと思う。五重の相対より先は全く不要。集団対集団、人対人を相対させる行き着く先は『俺対俺以外相対』となってしまう。八重だの九重だの、説法者自己装飾の厚化粧というべきだろう」

「みんなが金輪聖王のごとく、というのが先生の心。先生は金輪聖王だ!なんてやったら、先生から張り倒されます」(=波田地の説を揶揄しています)

「師弟や師弟不二、師弟合一を説くのは ある意味、誰でもできます。実はそうではなく、師弟不二、師弟合一の生き方を示すことが本来であり、そのような話を聞いたら説法者の生き方をこそ見て、真実であるかどうか確かめることが肝要なのだと思います」

「人を天魔と罵るその顔が天魔に見える」

「近年、『池田先生は仏法上ではこのようなお方である、金輪聖王である』とか、『五重の相対より先の相対』等を主張して、衆目を集めるような説き方をする人が表れましたが、『四菩薩造立抄』の『私ならざる法門を僻案せん人』の一節が思い起こされます」

「個人のものではない大事な法門[日蓮仏法]を、かたより誤って考える人は、ひとえに天魔がその身に入り代わって、他者を自身と共に無間地獄に堕としてしまうのである。愚かなことだ。愚かなことだ。

しっかりと考えたいですね」

「私やkさんを天魔と呼ぶ人がいますが、その人物を囲んで対話する方々が自活座談会、オンラインスタディへ参加することはお断りします。『あんたは天魔だけど、あんたが主催する座談会には参加するよ』とは矛盾しています」

「教学研究が狂学研究になっては意味ないどころか、奪命、転落へ。学ぶ以上に、御本尊への唱題と仏法対話の実践が根本。第一に信、第二に行、第三に学の、順番を間違えてはいけないと思う」(=波田地が主宰する会の名称は「教学研究会」)

「ネット上で散見される『八重の相対』なる説。『五重の相対』として確立されている法の高低浅深から、人対人・集団対集団に移行したのでは、行き着く先は『俺対俺以外相対』になってしまう。『五重の相対』以上の相対は一切必要なし」

「同じくネット上で見られる『池田先生 金輪聖王』説。先生のスピーチの趣意は『みんなが金輪聖王のごとき活躍を』であって、特定の個人を金輪聖王として崇めよなど皆無。それを耳にされたら厳しく呵責されることでしょう。人間池田大作池田大作であって、それ以上でもそれ以下でもない」

「教学研究がなぜ、狂学犬臭(きょうがくけんきゅう)になることがあるのか? 自説中心だから。依法不依人の真逆状態だから。本来は、御書に入っていく、師匠の指導に入る 何よりも信・祈りと行・実践の中で学んでいくのが正道では。信行学と依法不依人を心したいですね」

「教学を語る人は多い。内容が教学なのか?はたまた狂学なのか?それを知る手掛かりが、語る人に『賢聖は罵詈して試みるなるべし』(佐渡御書)の事態が起きた時だ。対応に右往左往する臆病と保身の小人か、笑い飛ばして悠々としている威風堂々の大人か。人物の違いは教学と狂学の違いにも通じる」

──等々、“どの口で言っている?”と思わなくもありませんが、しかし、こと波田地を批判の対象と限定するならば、正鵠を射た指摘といえるでしょう。

身内からの声

こうしたHN座長からの攻撃に応じるかたちで、波田地側と見られる「みっこく堂」なるアカウントがTwitter上で、金原やHN座長、金原グループの女性中心者SHらをこき下ろします。

すると、日に日にエスカレートする両者の衝突に対して、やがて身内からも疑問の声が上がるようになっていきます。

しかし、そうした疑義が金原グループのLINEトークルームで呈されるたびに、中心メンバーがこれを圧殺、管理人が問答無用で退会させる事態が相次ぎました。

その過程で浮き彫りとなった金原グループの体質については、また稿を改めて触れるとして、ここでは、波田地に当てつけた発言から主なものを拾ってみましょう。

例えば女性中心者SHの弁。

「ちょうど1年前,自活参加者アンケートに運営側(=波田地を指します)が飲食をしながらオンライン座に参加しているのは見苦しいという投稿がありました。指摘された方は『そうですか,以後気をつけます』ですむ話だったと私は思いますが,それからの荒れ方は酷いもので,最後には自活中心者を『天魔』と罵って出て行かれました(今も,天魔と罵っていらっしゃいますが)」

例えば金原の弁。

「あるグループの方々が、自活の活動をやっかんでか、『自活メンバーの一部が、学会に戻るらしい』などという嘘話を垂れ流しているようです。笑話のような話ですが、なんとも情けないやり方です。笑

こういう作り話で人々を撹乱するのこそ『天魔』というんでは無いですかね。私の知る限り。

『事にかづけて人をあだむほどに・かへりてさきざきのそら事のあらわれ候ぞ』(窪尼御返事)

この通りですね」

例えばHN座長の弁。

「(波田地の言動は)実に哀れとしかいいようがありませんが、一歩、その精神構造に立ち入らせてもらうならば、人の行動を左右しようとする支配欲であり、その本質こそ、第六天の魔王・天魔の働きではないかと思います」

「人の思考と行動を見えない力で縛り付けようとするその心根こそ、天魔の働きだというべきでしょう」

“アッチが天魔だ!”

“いやいや、ソッチこそ天魔だ!”

要するに、「天魔の仲間割れ」ということなのでしょうか。