創価学会員として生きていく

波田地克利や金原明彦を中心とするグループ、創価学会元職員3名ら福岡大祐のグループ、宮川日護(雄法)らの本性をあぶり出し、反面教師としながら、創価学会員として生きていくべき道を追求します。

反面教師として

「竹」冠に「師」と書いて「篩(ふるい)」。字源は分かりませんが、なかなか味わい深い字義だと思います。
そこには、冷酷非情に「ふるい落とす」というよりも、「獅子の子落とし」さながら弟子を薫育する師匠の厳愛が感じられるのです。

 

私は生まれてすぐ、自分の意志とは無関係に創価学会へ入会しました。
もちろん、唯々諾々として今日に至っているわけではありません。
池田大作名誉会長を「先生」と呼ぶことへの葛藤。
自分の友人に対して、創価学会の信仰について語ることへの逡巡。
“家族”とも形容される濃密な組織に属し、その一員として生きることへの嫌悪。
思春期、青年期、壮年期と、壁にぶち当たっては、その都度、真剣に向き合い、手ごたえのある意味を自分なりに見いだしてきたつもりです。

 

そして今、「創価学会員」として生きてきたことに後悔はありません。
と同時に、「これからも」創価学会員として生きていくにあたって、未知の「篩」に直面しているのではないかとも、おぼろげながら感じています。
そう感じるようになったきっかけは、最近、学会の中でも表だって語られ出した、いわゆる「組織内組織」で処分を受けた人々の存在です。

 

池田先生に対して直接的に敵対するわけではなく、創価学会本部と相対するかたちで「真の池田門下」をかたる人々とは、いったい何ものなのだろうか。
この問いを解くことは、そのまま反面教師となって、私自身が、この先どのように「創価学会員として生きていく」のかということへの答えに通じるのではないかと思ったのです。

 

池田先生が「後継を頼む」とおっしゃってこられた「まことの時」に、「わするる」ことがあってはならない「約束せし事」は何なのか。関係者への取材にもできる限りチャレンジして、いろいろな方々と語り、このブログを綴るなかで、考えていきたいと思っています。

 

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