創価学会元職員3名ら福岡グループ(福岡大祐、小平秀一、滝川清志、野口裕介)の支持者が日蓮正宗に
長野県にある妙相寺で、かつて副講頭を務めた日蓮正宗信者の樋田(とよだ)昌志は、長年にわたり脱会者づくりに狂奔してきた人物です。
この樋田が1組の母娘らを脱会させ、日蓮正宗へと引き入れる様を、自身のYouTubeチャンネルで「ドキュメント 創価三世一家4人 創価脱会! 日蓮正宗へ入信!!」と題し、公開しています。
実は、この母娘は、福岡大祐や“創価学会元職員”を売りものにする3人、小平秀一、滝川清志、野口裕介らのグループ(福岡グループ)の集会にも参加していた、支持者の母娘でした。
その母娘が、脱会して彼らのグループに合流すると思いきや、日蓮正宗に行ってしまったわけです。
事の経緯と問題点を明らかにします。
母娘の言い分をブログで垂れ流し
この母娘は、複数回にわたって福岡グループの集会に参加しています。
集会で母娘は、“地区の中でのイジメに意見したら、唱題会に参加できなくなった”“それをきっかけに、組織から排除された”等と、“涙ながらに”語ったといいます。
そして、福岡グループはブログで、例によって例の如く、母娘を「正義感溢れるBさん」などと手放しで受け入れ、その話を、すべて真実であるかのように垂れ流し、一つ覚えのように「本当に有り得ない話である! 『苛めは苛めた側が100%悪い』というのが師の思想だ! 絶対に苛めを許す訳にはいかない!」などと直情径行に書き立てました。
実態は“被害者”ではなく“加害者”
果たして実態は、母娘の言うようなものだったのでしょうか。
どうやら母娘の素性は広範囲に知れ渡っているようで、比較的容易に“学会組織の側から見た母娘”像にたどり着けました。
そこで垣間見えたのは、福岡グループが撒き散らしている母娘の主張とは大きく異なる実態でした。
あえて詳細は割愛しますが、幹部等へのストーカーまがいの電話攻勢、待ち伏せや付きまとい、深夜の押しかけ、暴言や奇行の類いは、枚挙に暇がないほどだったようです。
長年にわたり迷惑をかけられ、苦しめられ、耐え抜いてきたのは、母娘のほうではなく、地元組織のほうだった──これが地元組織の側から見た実態でした。
福岡グループは、野原善正氏の時と同様、母娘が自分たちに都合よくねじ曲げた話を、ブログで無責任に撒き散らしていたのです。
自分たちをチヤホヤしてくれる人物による、自分たちの主張を強化してくれる話であれば、無条件で鵜呑みにし、無責任に材料として利用する──これはおそらく福岡大祐、小平秀一、滝川清志、野口裕介ら福岡グループの面々に共通の精神構造に由来する、“クセ”だといえます。
「自己責任です!」
また、小平秀一、滝川清志、野口裕介による駄本を周囲に配って歩くほどの福岡グループ支持者であった母娘が、冒頭に記した通り、今や日蓮正宗側に堕ち、今度は、その言い分を強化する立場に堕してしまっているという事実に対して、福岡大祐、小平秀一、滝川清志、野口裕介は、どう対処するのでしょうか。
これを真摯に受け止め、当該ブログ記事を削除し、謝罪するのか。
さもなくば、母娘に対して、日蓮正宗から去るよう説得するのか。
あるいは、自分たちに都合の悪い事実は見て見ぬふりか、はたまた誰かのせいにするのか。
せいぜい、“ボクたちに事実を確認するすべはなかった”とカラリと開き直りながら、“脱会して日蓮正宗の側に行ってしまったのはボクたちのせいではなく、学会のせいであり、本人たちの問題だ”と責任をなすりつけるのが関の山のような気がします。
福岡グループと親交の深い、波田地グループのKが語っていました。
福岡グループの集会に参加することで身元が明らかとなり、結果として処分を受けるケースがあるとして、Kは、福岡グループの集会は「処分者ホイホイ状態」だと危惧し、彼らに電話で疑義を呈したそうです。
すると返ってきたのは、「できることはやってます!」「それ以上のことは自己責任です!」との開き直り。
Kは「だったら告知しろよ」「(参加したら)処分されるかもしれませんよと」と応じたところ、「もういいです!」と言って電話を切られてしまったといいます。
さらに翌日、小平秀一から電話がかかってきて、「あなたとは方向性が違いますから、二度とボクたちの会合に参加しないでください」と「怒られました」と、Kは呆れ返っていました。
このKが語る一件でも一目瞭然なように、福岡グループの特徴を一言で言い表すとするならば、「幼児性」に尽きると思います。
退転・反逆の共通点
波田地グループや福岡グループ、野原善正氏等々に限らず、退転・反逆の人びとには大きな共通点があるように思えてなりません。
それは語弊を恐れずに言えば、「被害者ヅラ」です。
例えば、学会を会員除名された小平秀一、滝川清志、野口裕介の3人が、学会本部職員当時の配転(配置転換)命令、譴責処分は不当であるとして提起した裁判で、東京高裁が下した判決(2019年10月16日)は、彼らの本質を、こう鋭く喝破しています。
「控訴人ら(=小平ら)は、被控訴人(=創価学会)の幹部や職場の上長らから、再三にわたって、本部指導監査委員会による上記指導の意味内容を理解し、これを受け入れるよう説得されても、これを聞き入れることなく、かえって、本部指導監査委員会の審議が不公平かつ偏頗なものであるとしたり、創価学会や池田名誉会長の指導等の一部を殊更に強調して、これを大義名分として、創価学会の将来のための重大な問題であるとしたり、あるいは、原田会長が職員全体会議で行った説諭は、控訴人らが本部指導監査委員会の指導に従わないことを厳しく説くものであるのに、そのことに思いを致すことなく、説諭の一部を恣意的に取り出して自己の主張の後ろ盾としたりしているのであって、このような控訴人ら(=小平ら)の対応は、創価学会の目的達成のために設立された被控訴人(=創価学会)の職員としての服務上の注意事項に違反し、職員としての適格性を疑わせるに十分な事情であるとともに、職場秩序の維持の観点からも看過できないものであったというべきである」(創価新報より)
このように彼らの幼稚な独善性は、裁判の場においても厳しく指摘されているのです。
精神科医の片田珠美氏は、その著書『被害者のふりをせずにはいられない人』(青春出版社)で論じています。
「どのような人が被害者意識を膨らませやすいのだろうか。キーワードは『自己愛』である」
「自己愛が強いほど被害者意識を膨らませやすく、周囲に混乱をもたらす」
「強い自己愛の持ち主は、自分が抱いている自己愛的イメージが損なわれる事態に直面したときも、否認によってそういう事態から目を背けようとする」
「強烈な自己愛の持ち主は、事実を捻じ曲げてでも自分の万能感を守ろうとするのである」
「事実を捻じ曲げる方法の1つが、被害者のふりをすることだ」
彼らがさらす“生き恥”を目の当たりにするにつけ、誰しもが抱く自己愛、仏法で説くところの「我愛」から目を背けずに向き合い、利他へと昇華しゆく、日々の地道な学会活動を通じての仏道修行、つまりは「人間革命」の実践が、いかに大切であるかを思い知らされます。