創価学会員として生きていく

波田地克利や金原明彦を中心とするグループ、創価学会元職員3名ら福岡大祐のグループ、宮川日護(雄法)らの本性をあぶり出し、反面教師としながら、創価学会員として生きていくべき道を追求します。

波田地・金原にとっての「ゴール」とは

2018年、ある日のことです。

波田地克利のグループメンバーは、今後の方向性をめぐって意見を戦わせました。

グループの番頭格・金原(きんばら)明彦が、自らの除名をきっかけとして「新しい創価学会」なるものの立ち上げに向け、動き出したのは2015年秋。

あれから約3年がたっていました。

本稿では、金原が主導した波田地グループの今に至る迷走ぶりを概観してみます。

「我々は何者なんだ?」

「会の趣旨というか、波田地・金原グループみたいなものが、我々は何者なんだみたいなものが語らずともあって、そのグループとして、こういうふうにやっていきましょうという討議をしているのか。

あるいは、個々人で、“こういうことに気をつけてやっていかなきゃいけないよね”“そうだよね”っていう話をしてるのか。

よく分からない。見えないんですよ。

我々が何者なんだっていう規定が、できてるのかどうかっていうのが見えない。

僕から見ると、ないように見える」

グループの中では“新参者”ともいえるメンバーが、業を煮やして訴えました。

これに古参メンバーも応じます。

「おっしゃる通りですよ。

ぼちぼち、本当にスローガンならスローガンなり。

そういう時ですよ」

波田地グループにとって3年という歳月は、「ぼちぼち」と表するほどの短日月なのでしょうか。

いえ、おそらくは焦りと苛立ちを懸命に噛み殺した「ぼちぼち」だったにちがいありません。

これに対して金原が応じます。

「僕は、2020年まで待とうかなと。それは。と思ってるんだけど」

この煮え切らなさたるや。

「ゴールは何なんですか?」

「ゴールは何なのよっていうところを、まず決めたい」──我慢できなくなった他のメンバーも加勢し、金原に詰め寄ります。

「金原さんのゴールは何なんですか?」

まさに核心を貫く頂門の一針。

果たして金原、何と答えるか。

金原「僕たちのゴール? ゴールは、まだないね」

メンバー「な……。じゃあ、何に向かって進もうとしてるんですか?」

金原「ゴールは、まだない。化城はあるかもしれないけど」

3年もたって、ゴールが「まだない」とは。

ゴールがないのですから、「化城」などあるわけがありません。

3年前に金原は自省しました。

「今まで執行部に対する批判はしてきたけど、具体的に我々、どうしようかってことは語られてこなかったので」

金原たちは、ここから一歩も前に進めていないのです。

それも当然でしょう。

波田地グループは、「執行部批判のためのグループ」以上でも以下でもないのですから。

「分派活動と言われてしまうと、まずい」

“学会をどう変えるのか?”との問いに対する金原の答えも、まったくの期待外れ、というよりも予想外のものでした。

「そこまでの展望はないよ、俺には」

自分たちが何者なのかも、説明できない。

「ゴール」もなければ、「展望」もない。

つまりは、批判のための批判。

どこかの政党と似たり寄ったりの、ただの“文句言い”“クレーマー”でしかありません。

金原が言い訳がましく総括します。

「そりゃ、ゴールをもったら、もう組織なんですよ」

この一言は、古参メンバーが語った一言と、いみじくも対を成していました。

「分派活動と言われてしまうと、まずい」

波田地グループが「組織」となれば、「分派活動」と言われてしまう。

だから、「組織」と見られないように、「ゴール」は曖昧なまま(本当のところは存在しない)。

しかし、「新しい創価学会を立ち上げないと、自分たちが焚きつけた手前、これ以上、グループの求心力を維持することは難しい。

とはいえ「展望」はない。

この板挟みで右往左往しながら、しかし結局は堂々巡りに終始したのが、金原が主導した波田地グループの3年間だったわけです。

すなわち波田地グループのやっていることは、「分派活動」とさえ言えないほど中身が空っぽな「破壊活動」でしかないのです。

「慢心」は「臆病」の裏返し

「金原さんは“学者”だから……」──そう評するグループメンバーも多いようですが、そこには、ある種の諦めにも似た侮蔑的感情が潜んでいるように思えてなりません。

御聖訓に「修羅のおごり帝釈にせめられて無熱池の蓮の中に小身と成て隠れしが如し」と仰せの通り、「慢心」は「臆病」の裏返しです。

ええかっこしい”の臆病者たちが「新しい創価学会をつくる」など、どだい無理な、身の程知らずの増上慢にすぎません。

日蓮大聖人は「諂曲なるは修羅」と喝破されていますが、「邪智にして心諂曲に未だ得ざるを為れ得たりと謂い我慢の心充満せん」と法華経に説かれる「悪世の中の比丘」そのものの姿ではないでしょうか。

さて、金原が「あるかもしれない」と言った「化城」なるもの。

その本質は「時間稼ぎの目くらまし」です。

そう言えるわけを、次稿では掘り下げてみたいと思います。