波田地克利と金原明彦の分裂劇を追う⑦
「波田地外し」を策動する金原の軌跡
金原(きんばら)明彦らによる「波田地外し」「波田地シンパの切り崩し」に憤慨した波田地克利は、反撃として、“これまで公にしていなかった”という「大仙家会談」の存在を暴露しました。
「愚かな味方は敵より怖い──正木の足を引っ張り、失脚させた金原、木村、2人の副会長ら、八重の相対から9番目の相対へ」なる文書(波田地文書)で波田地は、“金原や木村博昭、O副会長やK副会長(共に当時)らのグループによる「大仙家会談」をめぐる大失敗が、正木正明理事長(当時)失脚の最大の原因となった”と主張したのです(詳しくはこちら)。
会談の存否は当方の知るところではありませんが、しかし、少なくとも金原が、「波田地外し」を前々から企み、折節、機を捉えようと目を光らせ続けてきたことは確かだといえます。
ここでは、その断片を重ね合わせながら、「波田地外し」を策動する金原の軌跡をたどります。
「O副会長」にこだわる波田地
「大仙家会談」なるものが行われたのは、「波田地文書」によれば2014年7月29日。ここで金原が、静岡のO副会長(紛らわしいので当時の役職名で統一します)らと「謀議」をめぐらしたと、波田地は“暴露”しています。
この「O副会長」に対する波田地のこだわりは相当なもので、これまでも波田地は「O副会長」を引き合いに出して金原をなじってきました。
「今までね、あらゆる非難をね、波田地さん(=自分)が一手に引き受けて、全部浴びてきたけどね。金原はね、自分がやったことなのに、Oさんの解任とかね、金原のきの字も出ないで、波田地の名前でさ、Oさんやられて」
「Oさんの解任理由に、僕の名前を出すなって。会ったこともないのに」
また、内紛勃発後も、波田地は金原グループとの話し合いの条件として、“Oさんとの一対一での面談”を金原側に提示していたことからして、波田地の執着がいかに根強いかが分かります。
長年の盟友たる波田地が、これほどに執心しているのですから、金原が波田地をないがしろにして何らか策動していたことは間違いないといえます。
金原が入手した「遠藤文書」
そして、この「O副会長」と金原とを結ぶ最大の接点こそ、俗に「遠藤文書」と称される文書の存在です。
この文書は、総合教学部長だった遠藤某から、氏と同じ大学の出であるO副会長の手に渡ったといいます。
それがさらに、O副会長から金原へと渡り、以後、この「遠藤文書」がネット上で拡散され、学会執行部への攻撃材料に使われていきます。
「宿坊の掲示板」が波田地・金原らによって、事実上、乗っ取られたのも、ちょうどこのころです(詳しくはこちら)。
学会執行部を攻撃するために、“外”に情報を撒き散らし、包囲網をつくろうとする──“プチ・山崎正友”さながらの汚い手口です。
目的が手段を正当化することは決してない、というのが、池田大作名誉会長が教えられた簡潔明瞭な鉄則のはずです。
いかにご立派な大義名分をデッチ上げようとも、いずれにせよ金原らが「禁じ手」を打ったことに変わりはありません。
ちなみに、そもそも、この「遠藤文書」が書かれるきっかけとなった、同じく教学部だった人物が書いた「教学部レポート」と称される文書もまた、グループの窓口となって入手したのは金原でした。
「スタポの執筆者・正木伸城氏」
もう一つ、「波田地文書」で明かされている事実が、正木正明氏の長男・正木伸城氏とグループとの関係性です。
波田地は文書で、彼を指して、こう記しています。
「正木理事長の長男で、スターティングポイントの執筆者でもあった伸城氏」
ここでいう「スターティングポイント」とは、かつて関西の波田地・金原グループが中心となって運営していた会員制有料ブログ(略称:スタポ)のことで、運営の実権は、関西の事務局的な存在・SYと、現在は金原に付き従っている石黒広信が握っていました(詳しくはこちら)。
運営の経費は、関西の中心的人物・木村が担っていたとは、木村本人の弁です。
波田地が明かすには、このスタポの執筆者として、正木伸城氏が名を連ねていたというのです。
実際、グループの集会でも、何度か正木伸城氏は話題に上ってきました。
ある時などは、金原が「正木さんの息子とかね。もう出来が悪くてしょうがない」と吐き捨てると、愛知の春日己津男が「僕の友達を悪く言うのはやめてください」と笑いながら茶化す。
これに対して、金原は「いやいや、書かなきゃいいんだよ」と本気でダメを押していました。
正木伸城氏とグループとの関係性の深さが、垣間見えるやりとりです。
正木伸城氏をグループに抱き込むことで、少しでも、父・正明氏を神輿として担ぎやすくしたいとの思惑でもあったのでしょうか。
「近い人からの話」
また、2015年の段階から、石黒広信が集会で、このように語っていました。
端緒を切ったのは、やはり金原です。
「ローさん(=石黒)、あの正木(正明)さんの話をちょっと」
すると石黒は、「正木さんに近い人からの話」として、側聞した内容を伝えると共に、「金原さんのことは、やっぱり、しっかりですね、信濃町にとって、教学の、なんていうんですかね、金原さんという存在はですね…」と付け足そうとします。
すでに石黒、この時点でベロンベロンに酔っぱらっていたため、金原が石黒の“失言”をたしなめます。
「“たち”ってことでしょ。『金原さん“たち”』って言ってるんでしょ」
すると、石黒は、「“たち”。はい。(金原さん)たちは、教学をしっかりと立て直すためには絶対に必要な存在なんだ、ということを言っていたとのことです。はい」と、やっとのことで報告しました。
2015年といえば、金原が「新しい創価学会」構想をぶち上げ、「2016年11月18日」に射程を据えて、準備に奔走していた時期です。
そのなかで、金原と石黒は具体的に、正木氏側との接点を持とうと画策していたわけです。
それにしても、チヤホヤされた高揚感で舞い上がっている金原の姿は、滑稽でしかありません。
2019年夏、金原宅での一夜
波田地は同文書で、金原らと仲違いしていく経緯を振り返る中で、「私が西湖オフ会を蹴飛ばそうとまで思いつめたのが、2019年7月のことでした」と記しています。
波田地は、グループにとっては一年で最も重要な大型集会を、その主催者でありながら、欠席しようとまで「思いつめた」というのです。
この時期を表して波田地は、「大きな壁にぶつかり、真っ暗でした」と述懐しています。
かたや、確かに金原の「見切り」もまた、このころを境にしていたと思えます。
寄せられた情報によれば、2019年8月24日、波田地が、やれ佐渡島へ、やれ北海道へと、物見遊山で全国をブラブラと遊び歩いているなか、金原と木村は静岡の金原宅で、“波田地抜き”で一晩を共にしたそうです。
真偽不明の内部情報をばら撒いて“外圧”によって有利に事を運ぼうと狙ったり、身内を抱き込むことで味方に誑し込もうとしたり、長年の盟友をパージして謀議をめぐらしたりと、金原の手口は、まさに「謀略」そのものです。
そして、謀略に謀略を重ねてでき上がる「新しい創価学会」など、あろうはずもありません。
池田名誉会長によって、また、その名誉会長の振る舞いを範として、一人を救い、一人を励まし、その営々たる積み重ねによって今日の創価学会が築かれたことを思えば、金原のやっていることは「師敵対」以外の何ものでもありません。
いや、酒を呑み、酒に呑まれながら、その“アテ”に語らうような代物など、およそ広宣流布の世界、師弟の世界とは無縁の「遊び」にすぎないのです。