創価学会員として生きていく

波田地克利や金原明彦を中心とするグループ、創価学会元職員3名ら福岡大祐のグループ、宮川日護(雄法)らの本性をあぶり出し、反面教師としながら、創価学会員として生きていくべき道を追求します。

ユーチューバー教祖・波田地克利や金原明彦らが陥った自縄自縛

“コンテンツ”としての「波田地克利」は、特定少数でこそ面白おかしく消費して終わるのかもしれませんが、その消費者が不特定多数となれば、そうはいきません。

波田地が自らの言葉を公に発信し、その履歴を残すことで、いかなるリスクが生じるか。

名誉毀損等の訴訟リスクは無論のこととして、波田地や、波田地グループの番頭格・金原(きんばら)明彦が陥っているジレンマの一端に触れてみたいと思います。

「亨師談聴聞記」をめぐり波田地がひけらかした日蓮正宗関係者「●●●●」とのつながり

ユーチューバーとなった波田地が直面するリスクの中でも最大のものは、「発言を選ぶリスク」でしょう。

これには「編集時点で生じるリスク」と「発言時点で生じるリスク」が存在します。

そして、そのリスクが裏目に出た場合の説明責任は、波田地自身はもちろん、映像のプロデュースやディレクションを中心的に担っている金原や石黒広信も“同罪”で負うべきであることはいうまでもありません。

例えば波田地は、昨年(2019年)7月に行われた集会での独演会を収録したYouTubeの映像で、堀日亨上人の発言をまとめたとされる「亨師談聴聞記」を取り上げています。

この文書について波田地は、こう語ります。

「この存在は河辺メモが出てきた時から噂にはなってたんですけども、現物がなかなか手に入らなかったんです。

宗門でも、ごく一部の高僧だけが持ってて、いわゆる、中堅より下の坊さん、誰も持ってません。

法華講なんて誰も持ってない。

だから、皆さん方で、法華講にお友達がいたら、いいもの入ったから見せてあげるって、見せてあげてほしいんですよ」

いかにも、とかくレアアイテムを好み、また、レアアイテムで歓心を買って人を釣るのを長年にわたる常套手段としてきた波田地らしい言いぐさです。

ところが、YouTubeにアップされているのは、ここまで。

実は、波田地は席上、さらに次のような裏話をひけらかしていました。

「僕が、これ(=亨師談聴聞記)が出てきた時に、これが手に入った段階で、全文読みたいなと。(入手したのは)3ページしかないんで。

全文持ってそうな人に、ある人にね、坊さんに、電話で『持ってますか』って言ったら、『持ってるよ』って言ったの。

『どうして持ってるんですか』って聞いたら、大橋さん(=聴聞記をまとめた大橋慈譲氏)から直々にもらったって。

これはカットしなきゃいけないかもしれないけども、なんだ、●●●●っていう、宗門を、日顕を批判して、僧籍返上した坊さんなんですけどね」

要するに波田地は、「●●●●」という人物に対して直接電話をし、さらに門外不出の資料について、その存否を確認できるほどの間柄にあるわけです。

しかし、この「●●●●」とのくだりは、YouTubeの映像では削られています。そこに何らかの意図が作用していることは間違いありません。

なぜ波田地らは、このくだりを、わざわざカットしたのか──この追及から免れられないというのが「編集時点で生じるリスク」です。

「これはカットしなきゃ」と前置きする波田地の軽薄さ

波田地がフルネームで実名を挙げた、この「●●●●」という人物は、日顕らが学会に「解散勧告書」や「破門通告書」を送りつけてくる直前、学会に対して「御本尊下附の停止」「登山停止」「講中解散勧告」「名誉会長・会長・理事長の破門」を速やかに実行すべしと、公の場で主張した人物の一人です。

つまり「●●●●」は、学会の師弟分断を狙う日顕らの描いたシナリオ通りに茶番劇の先棒を担ぎ、学会破門への道筋をつけたわけです。

波田地自身が「これはカットしなきゃいけないかもしれないけども」と前置きしているように、教宣活動で名を売ってきた波田地にとって、いろいろな面で打算が働いてのカットだったのでしょう。

このように、編集でカットすれば必然、そこに横たわる「打算」が浮かび上がってこざるをえないのです。

そして、その打算がはらむ「やましさ」にこそ、波田地、そして波田地グループの本質が表れているといえます。

波田地の口に戸は立てられず」

「だったら、最初から話さなければよいものを」と思うのが常人の感覚ですが、それでも波田地は話さずにはいられないのです。

なぜなら波田地には、とにかく自慢話と悪口になるや自制が効かなくなるという、抗いがたい習性があります。

しかし、考えてもみてください。

そもそも映像の元となった集会には、子どもは除いても約60人が参加していたのです。

一つの口ですら戸は立てられないのですから、60の口ならなおのこと。一般世間の常識からすれば、すでに波田地は、「●●●●」との関係性を、のべつ幕なしにバラしているに等しいのです。「カット」もへったくれもあったものではありません。

ところが、そこは波田地特有の幼児性なのでしょう。「カットすれば済む」と本気で思っているのですから、付ける薬がないとはこのことです。

煎じ詰めると、冒頭に指摘した「発言時点で生じるリスク」は、換言すれば「波田地によって生じるリスク」にほかなりません。「波田地の口に戸は立てられず」なのです。

八方塞がりの波田地・金原

一事が万事で、都合の悪い部分をカットしたらカットしたで、なぜカットしたのかを追及される──。

ならばと、カットしないですむように言葉を選べば選ぶほど、勝手気ままな放言はなりを潜め、波田地自身も飽き足らなくなってくる──。

しかも、そこまでして映像を出したとしても、いちいち常に前言との整合性を問われることまでは避けられず、さらに窮屈に縮こまっていかざるをえない──。

まさしく「自縄自縛」以外の何ものでもありません。

しかしながら、それでもなお自分が前面に出ることでしか、もはやグループの求心力を維持できなくなった波田地。それほどに彼らは、今や八方塞がりに追い詰められているのです。

そして最近、また金原が、“策士策におぼれる”で窮余の一策を講じたようですので、稿を改めてご紹介したいと思います。