創価学会員として生きていく

波田地克利や金原明彦を中心とするグループ、創価学会元職員3名ら福岡大祐のグループ、宮川日護(雄法)らの本性をあぶり出し、反面教師としながら、創価学会員として生きていくべき道を追求します。

波田地克利と金原明彦の分裂劇を追う⑤

波田地文書」で明かされた“謀議”とは

波田地克利の同調者に対して、「(学会の執行部打倒を目論む)連中が会内で動きだす時 誰を基盤にしますか?」「その時に ハタチ一派はどうか? 使い難い存在です」等と吹聴し、波田地の孤立化に蠢動する、関西の中心的人物・木村博昭。

その木村の動きに対して、「指導的立場にある金原さんが、問題を矮小化しよう、しようとしている」と、金原(きんばら)明彦を責める波田地。

波田地は、金原が女性Tに「知り合いの2人の副会長も、波田地さんのことを良く言っていない」と語っていた事実をもって、「その意味が分かりました」としています。

すなわち、「問題の本質は、金原、木村、2人の副会長らの結託による波田地外し、波田地シンパの切り崩しにあった」というのが波田地の導き出した答えでした。

そして波田地が反撃材料として出した切り札が、「大仙家会談」と称するものです。

波田地による“暴露”

最初にお断りしておきますが、これはあくまでも「波田地が公にしていること」です。波田地はTwitter上でのやりとりを通じて、「愚かな味方は敵より怖い──正木の足を引っ張り、失脚させた金原、木村、2人の副会長ら、八重の相対から9番目の相対へ」なる文書──いわゆる「波田地文書」の画像を、誰もが見られるかたちで暴露しています。

ここでは、その真偽は不明であることを前提に記したいと思います。

また、「副会長」というのは2014年当時の役職です。

学会執行部の打倒を目論む波田地は、同文書で、正木正明理事長(当時)を担ぎ上げてのクーデター計画が存在していたかのように綴っています(正木氏本人の関与や認識の有無については書かれていません)。

その上で、「2015年に、正木理事長が更迭された時点で原田体制打倒はほぼ不可能になったと思っています。実は、その正木失脚の引き金を引いたのが、今、波田地外しを画策している金原、木村、2人の副会長らのグループなのです」としています。

さらに、「金原、木村、2人の副会長らのグループ」による「正木失脚の最大の原因となった大失敗」として波田地が挙げているのが、2014年7月29日に行われたという「大仙家会談」なる「謀議」です。

波田地によれば、この「謀議」の参加者は、「静岡からO副会長、金原、関西から木村、福井の副会長と県長」

この謀議の内容が、関西担当だった「K副会長」の失態により露見し、「一派は万事休す。一網打尽にされ」たといいます。

そして波田地の見立てでは、ここに登場する面々が、「今度は、ハタチの足を引っ張っている」とした上で、「いま問われているのは、正木の足を引っ張り、失脚させたトンマな金原、木村、2人の副会長(=上記のOやK)らの側に付きますか、それとも、その連中から敵視されている側に付きますか──その選択です」と結論しています。

波田地・金原の動機

いったい波田地は、なにゆえに、8年も前の出来事を今さらになって引っ張り出してきたのでしょうか。

もちろん、冒頭で触れた「波田地外し」のカラクリを、波田地なりに説き明かし、自分に同調する「シンパ」を引き留めたかったのも、理由の一つではあったでしょう。

ただ、その根っこにある動機、衝動のようなものは、そこにはありません。

波田地は、同文書の中で、わざわざ「大仙家会談」のくだりに書き加えています。

「(波田地は蚊帳の外。会談の開催は聞いていたが、内容はいまだに聞かされず)」

突き詰めていくと、波田地にとって、謀議なるものの存在や内容、その影響など、実は、どうでもよいのではないでしょうか。

自分だけが──あろうことか、この自分が、「蚊帳の外」に置かれ、「内容はいまだに聞かされず」という劣等感、疎外感こそ、波田地がなりふりかまわぬ反撃に出た真因だったと思えてなりません。

波田地文書」には次のようにもあります。

「『その時に ハタチ一派はどうか? 使い難い存在です』というのは、ひどいですね。木村さんにとって、ハタチ一派は、『使う』『使わない』の対象なのですか? いままで利用するために、接してきたのですか?」

波田地を知る者からすれば「それ、ご隠居が言います?」の一言だと思います。

このようになじりながら波田地が言う、「使いづらい、使うのが難しいので、別な人たちを利用しよう──こういう発想」は、まさしく金原の急所を貫き、返す刀で波田地自身の急所をも斬っている指摘だといえるでしょう。

自分を高く買ってくれる人には尻尾を振る。

自分を安く売ろうとする人には牙を剥く。

いかに「教学」や「自活」で見栄えよく粉飾しようとしても、波田地や金原らが繰り広げているのは、まさしく「派閥争い」そのものであり、「正義」も「師弟」もお飾りの大義名分にすぎないのです。