波田地克利と金原明彦の分裂劇を追う⑥
金原が企み 破綻した「新しい創価学会」構想
金原(きんばら)明彦が2015年に創価学会から除名されて以降、“クーデター”を夢想する金原の動きは、にわかに激しくなります。
当時、金原は、このように吹いていたといいます。
“2016年の「11・18」を過ぎたら、見切りをつけて、新しい創価学会をつくるしかない”
金原が描いていた、この「新しい創価学会」構想を通して、金原という男の正体に迫りたいと思います。
金原の本音
なぜ金原は「2016年11月18日」を分岐点と考えていたのでしょうか。
金原が、こうも嘯いていた事実を踏まえれば、その理由にも合点がいきます。
“池田先生も、あと5年は生きられない。あと1、2年が精いっぱい”
これこそが金原の本音です。
この一事をもって、金原の本性を知るには十分ではないでしょうか。
このような人間が「師弟」を口にしていると考えるだけで虫唾が走ります。
「新しい創価学会」の名称についても、“池田先生の名前を先に取り、商標登録をして、創価学会が使えないようにする”──そのようなシナリオも、仲間内で語っていたようです。
「師匠利用」も甚だしい薄汚れた皮算用です。
また、金原は、何様のつもりか知りませんが、正木正明氏か、はたまた金原が心酔してやまぬ聖教新聞・元記者の兵頭信二氏あたりを担ぎ上げようかと、勝手に“人事案”まで練っていたともいいます。
「反逆者扱いになるから」
一方、なぜ金原は、自分が除名となった2015年当時ではなく、あえて「2016年11月18日」を待とうとしたのでしょうか。
それについても、金原は説明しています。
“先生ご存命の時に旗揚げすると、反逆者扱いされてしまう”
“先生が目をつぶる時が、本当の勝負。俺たちが台頭する時だ”
もはや、多言は無用でしょう。
2015年から16年にかけての1年は、金原にとっては、虎視眈々の「雌伏の時」だったわけです。
これが「破和合僧を企む師子身中の虫」でなくして、なんだと言うのでしょうか。
いみじくも金原が自認している通り、金原の本質は「反逆者」にほかならないのです。
金原の狂い
2015年から16年にかけて、金原はセルビアグループの存在をテコにして、宮川日護(雄法)を窓口に、保田妙本寺から本尊を手に入れるルートを開通させます(詳しくはこちら)。
実際、金原グループにおける愛知の中心的なメンバー・春日己津男は、こう自慢していました。
「いいのかな? 言って。御本尊様が変わりました。僕。
日寛上人の御本尊から、第2祖・日興上人の御本尊に変わりました。
千葉県の保田に妙本寺っていう寺があって、宮川雄法っていう元会館寺院の僧侶だった改革同盟の坊さんなんだけど、(中略)日興上人の御本尊をいただくことができるよって、宮川さんという人に教えてもらったから、家族と相談して、日興上人の御本尊を下付してもらった。
あの、欲しかったら言って。いつでも手配します」
さらに2018年には、「新しい創価学会」の前段階として、「池田研究会」なる社団法人の設立も画策しています(詳しくはこちら)。
ところが、いずれも失敗に終わり、ならばと集会の参加者を増やすべく金原が大結集を呼びかけても、笛吹けど踊らず。参加者募集型の集会を開いても、鳴かず飛ばず──。
いよいよ打つ手がなくなった金原が、死中に活を求めて打った奥の手こそ、「波田地外し」だったといえるでしょう。
現在、実質的には金原が主宰している「自活座談会」も、そうした金原による謀略の舞台装置にすぎません。
金原が待ち望んでいた「2016年11月18日」──己が心の内で師を亡き者にした金原の狂いこそが、一切の狂いの元凶だと知るべきです。