創価学会員として生きていく

波田地克利や金原明彦を中心とするグループ、創価学会元職員3名ら福岡大祐のグループ、宮川日護(雄法)らの本性をあぶり出し、反面教師としながら、創価学会員として生きていくべき道を追求します。

保田妙本寺を侵食する宮川日護(雄法)

鎌倉日誠住職に隠れてこそこそと蠢く宮川日護(雄法)。とんだ食わせ物をつかんでしまった保田妙本寺と宮川との関係は、どのような縁から始まったのでしょうか。

まず宮川の説明を振り返ってみましょう。宮川は2017年5月2日、大要、次のようにFacebook上で記しています。

鎌倉日桜氏とのなれそめ

かねてから保田妙本寺にある「万年救護本尊」を気にしていた日顕が、保田妙本寺の住職を本山塔中坊に召喚することを検討しているとの情報が、宮川のもとへ入ったそうです。

そこで宮川は、すぐさま妙本寺を訪問。「本山での謀議の旨」を、先代の鎌倉日桜氏に伝えたといいます。宮川はFacebookに綴っています。

「私が本山での謀議の旨をお伝えすると、温厚、柔和な日櫻上人の目が鋭く光り、『夏頃でしょうか、、』と聞かれ、私が『直ぐではないにしても、成る可く早急に、そして内々に』と、申し上げると、了解されたとの意か、『奥番さんはお幾つになられたかな』と、話を逸らされて、おっしゃったのを記憶している」

下手くそな時代小説もどきを読まされているようですが、この語らいによって翌年、妙本寺は日蓮正宗から離脱。鎌倉日桜氏は宮川に、「 お陰で万年救護を御守りできました。自坊と思って御登山下さい 」と語った、というのが宮川が語るところのストーリーです。

ところが、現在の鎌倉日誠氏が周辺に語っているところでは、だいぶ趣が異なります。

曰く。

日顕の奥番をやっていた時代に、日顕が「保田の御本尊が、うちにあったらな」と話しているのを聞いていた宮川が、その後、「妙本寺の本尊とは、どのような本尊だろう」と訪ねてきたのが最初だ”

こう先代の鎌倉日桜氏から聞いていたといいます。

“どこでも平気の平左で飛び込んでいく男”というのは多くの関係者に共通する宮川評です。鎌倉日誠氏の説明には、さもありなんと思いますが、それに比べて宮川の話には、ずいぶんと派手に尾ひれはひれがついているようにも感じられてなりません。

「万年救護を護った」は「宮川の作り話」

しかも、宮川は「万年救護本尊」が離脱の決め手で、その手引きを自分がしたかのように喧伝していますが、この点も、どのような真相だったのでしょうか。

鎌倉日誠氏が語るところでは、

“先代日桜氏の時代、日蓮正宗の宗制宗規が、弟子を持てるのは大石寺法主一人のみ、と変更されることになった。そうなると妙本寺では、日蓮正宗に属している限り、弟子を持てなくなってしまう。

妙本寺の血脈が途絶してしまえば、結果、妙本寺の伝統も、教義も、「日蓮正宗化」を余儀なくされる。日蓮正宗の僧侶が、妙本寺の後継者として入ってくるような危険性さえ考えられる。

そのような状況下にあって、先代の鎌倉日桜氏が、将来的には妙本寺が非常に不利になると反対するも、受け入れられなかった。

そのため妙本寺の血脈と伝統を守るために、離脱を決意した”

というのが実際のようです。

ですから鎌倉日誠氏も、宮川が語る「万年救護本尊を護るため」云々のストーリーに、「それはない。それは宮川の作り話」と疑義を呈しているようです。

そもそも日顕は、内心はともかく、妙本寺の「万年救護本尊」を公衆の面前で否定した過去があるのは周知の事実です。

やっていない副導師を「やった」と言う宮川

また宮川は、能化承認を初めて報告した2016年9月26日、Facebook上で、次のように記していました。

大本山での、ご先代貫首・鎌倉日桜御尊能師の七回忌法要を無事に終えた。小泉久遠寺貫首北山本門寺貫首、宮崎日向の各本山の面々が参列する中で、副導師を勤めた」

あたかも「小泉久遠寺貫首」「北山本門寺貫首」「宮崎日向の各本山の面々」を膝下に組み敷くかのような夜郎自大ぶりです。

しかし、これについても鎌倉日誠氏は、小泉久遠寺貫首北山本門寺貫首と同じく、宮川も単に来賓として扱っただけで、副導師として呼んでいるわけではないし、副導師をやらせてもいない”と明言しているといいます。

供養、本尊、貫首、副導師──宮川という人物は、ほとほと「権威」がお好きと見えますが、それにしても妙本寺、そんな宮川にひたひたと侵食されているかのように思えてなりません。まさか「妙本寺の乗っ取り」でも企んでいるのでしょうか。